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2008年5月 5日 (月)

「土佐邪馬台国」について

西村 今月のけんちゃんの今すぐ実行まちづくりのテーマは「高知の根源・由来を考える」ことです。よく使用される「高知らしさ」について何を持って高知と言えるのか。徹底的に検証しようと企画してみました。

 ゲストは島本茂男さん。以前の番組「けんちゃんのどこでもコミュニティ」に出演いただきました。毎週金曜日にはりまや橋商店街に占い師として登場されています。宗教や歴史分野に詳しい人です。

 もう1人のゲストは中平貴士さん。東京在住ですが全文が土佐弁で筆記されているブログ「土佐のローカルりズムちや」の作者。土佐人にあくまでこだわり古代史まで遡って検証されています。お仕事はクリスタルを媒介にしたセルフヘルプにもとづく癒しの仕事をされています。今回の収録は帰省されている時期に行われました。

 さて今回のテーマは「土佐邪馬台国について」お話をお聞きします。

 中平さんはブログ「土佐邪馬台国」を作成されています。土佐国の古代史を研究された結果、土佐に邪馬台国はあったということなのでしょうか?
 従来の説では九州などにあったという説が有力なのですが・・。

中平 そうですね一般的には畿内説や九州説が有力です。一般的と言われている2つの説にしましても日本書紀や古事記で「記紀史観」で支えられているのではないでしょうか。
 記紀史観は間違った、絶対的な皇国史観でよって支えられています。色眼鏡があるのではないかとわたしは思います。

西村 さきほど中平さんは「きき史観」と言われました。どんな字を書くのでしょうか?またその意味はどうでしょうか?

Sukinooosugi

中平 意味は、「日本書紀」と「古事記」の最後の紀と記をとりまして、「記紀史観」と言っています。日本書紀と古事記が日本人の正当な歴史として認識されています。
 

西村 中平さんは土佐邪馬台国の成立の根拠は、古代の時代では土佐は自然の要害なので可能であったと論証されています。
 三方が山に囲まれ、前に海が開けている。鎌倉同様の地形が土佐であるということです。軍事的な意味が大きいのでしょうか?

中平 軍事的な意味は大きいと思います。当時は船が戦争の手段であったことはほぼ間違いないと思います。そういう時代に朝鮮半島からの侵略に対して、愛媛県の佐田岬と高知県南部の足摺岬を通過点にもっちゅう高知はかなり優位な地形ではなかったかと思います。

 土佐が都であれば朝鮮半島の勢力と攻守おりませながらの一戦が出来ると思います。最悪の場合は黒潮に乗って東方面へ逃げられます。実際に四国の民は東北へ逃げられていると思っています。

 九州はあまりに朝鮮半島に近すぎます。奈良は遠すぎます。瀬戸内に都があったとすれば、挟み撃ちにされてしまいます。

西村 確かに東へ土佐の民が流れていったというのは、漁師などが紀州や横須賀あたりに定住したりしています。江戸時代からそうだったという話は聞きました。
 そもそも中平さんが邪馬台国が土佐にあるのではと提唱し出したのはいつからなのでしょうか?郷土史家の人たちも提唱されたことはわたしは知りませんでしたし。誰かの影響はありましたか?

中平 去年か一昨年頃だったと思います。たくさんの本やサイトを見ていますから、だれの影響を受けてないということはないと思います。
 ただだれもこのような体系化はしていないと思います。

 まず最初に日本書紀に土佐から神の刀、神刀が献上されたという記述があります。これを見てなんだかおかしいと思ったわけです。
 当時剣は3種の神器の1つでものすごく神聖なものです。そういう神聖なものが、なぜ土佐から天皇に献上されるのか?そういう疑問から土佐邪馬台国のものが少しずつ見えてきたような気がします。

 それ以前から修験道に興味がありまして、修験と関係のある山や神社には行ってました。実は高知は修験道(しゅげんどう)を創始した役小角(えんのおずぬ)の出身地奈良の葛城山とも密接な関係があります。

西村 さきほど修験道ということを言われましたが、普段聞いたことのない言葉でよくわかりません。どういった意味なのでしょうか?

中平 修験道と言いますのは、「験(しるし)を修(おさ)める道」と書いて修験道と言います。ですので、験を修める為に修験者たちは山へこもりました。そのあたりは間違いありません。
 さきほど申し上げましたように、創始者は役小角(えんのおずぬ)と言われています。

Shimamotoss01_2 島本 結局印を修める。印を手に入れる。その手に入れることにより人間が変わる。そのことを目指して修験者たちは山へ行っているわけです。そういう道であると思います。

西村 島本さんはご自身のブログ「占いから未来へ」で「縄文の精神を復活させよう」と呼びかけられています。
 縄文の精神は「他者を歓迎し、功利性を嫌い、激情にかられ、創造と破壊の力を持つなどの特徴をもつ」と言われています。
 
 縄文人の末裔である今の高知県人も「いごっそう」という気質があるようですが、これも縄文人の影響であると言えるのでしょうか?

島本 縄文人の特長は「おおらか」であったり、「感覚的」「感情的」。「そのとき、そのときを生きる。」「後先は知らん。」常に神を意識し,神とともに生きる。
 「いごっそう」は縄文人の末裔なんですが、土佐の歴史的な変遷によって、屈折したところがある。だからいごっそうというのは「屈折した縄文人」と言えるのではないでしょうか。

 そういう風に思っています。

西村 沖縄では、東京中心の地図では日本地図に納まらない別図に表記される辺境です。しかし沖縄からアジアを見ますと日本、中国、朝鮮、東南アジアは海路で近いものです。琉球王国の歴史と存在が独特の世界観を育てています。

 では高知の場合はどうでしょうか?高知を中心にした地図にしますとどのようなことが見えてくるのでしょうか?

島本 まず最初に頭に浮かんだのは山と海の出会いだというところよ。高い山、深い海、とうとうと流れる清流。激しい自然が土佐の風土をこしらえています。

 黒潮が最初に日本でぶつかるのは足摺岬です。結局激しい気候、激しい風土が、激しい土佐人の気性をこしらえたと思います。

Katurahama

中平 僕は高知を中心とした地図を想定しますと、古代の倭国が見えて来ます。東に近畿、西に九州。北に中国地方。この配置からして、高知はその中心にあります。

 もっとも重要な土地ではなかったかと思います。

西村 中平さんは土佐は「いつまでも流刑地史観ではいかん。」とブログで言われています。かつては日本の都の時代もあったのだと言われていますから。

 都を彷彿されるようなものは高知にはあるのでしょうか?また都が土佐にあったとどうして思われるようになったのでしょうか?

中平 そうですね。土佐邪馬台国史観にもとづいて、浦戸湾から物部川流域にかけて遺跡の発掘が行われれば、誰もが納得するものが出てくるのではないかと思われます。

 これは現在の考古学があらゆる可能性を想定していないということです。

 例えば海へ行きまして「なまこを持ってきてくれないか」と頼まれて、なまこを持ってくるようなものです。

 海には他にはウニとか、ワカメとか、エビとか、カニもいます。(海に何が存在しているのかを色眼鏡なしで調査するのが学問のはずですし、科学的であると思います)日本の学問全般にいえますね。比較的なことを科学という。これがこの国の学問ではないかと思っています。

西村 土佐邪馬台国は大和政権の前の国でしょうか?その後大和朝廷との関係はどうだったのでしょうか?

 大和に侵略され流刑地になったのではないのでしょうか?かつてローマと戦ったカルタゴは徹底的に破壊され100年間は廃墟になっていました。土佐邪馬台国があったとしたら、大和政権に滅ぼされたのでしょうか?

中平 私の考えは土佐邪馬台国こそが、大和(ヤマト)と思っています。大和朝廷はその価値をかすめとったのではないかと思います。
 滅ぼされたかどうかというところですが、まだ滅んではいないとは思いますね。まず
 古代から続くたたかいなのでは。

 壬申の乱、源平合戦。南北朝の動乱。蝦夷討伐。アイヌー琉球差別史観。東京中心主義。国家主義VS自由民権運動。こういう日本史を見て行きますと、大和朝廷VS邪馬台国ではないでしょうか。

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コメント

はじめまして。祖父母が香美郡下田村出身です。戦時の1年間南国市に疎開し、城東中学に通っていました。私は物部氏に興味を持っているのですが、高知県の「物部川」の初見は何時でしょうか。碩学の皆様にお尋ねいたします。

投稿: 浜田裕幸 | 2009年2月21日 (土) 17時52分

浜田さん、はじめまして。
私はこのブログの管理者ではないのですが、横から失礼致します。
このブログの番組に出演させて頂いた中平と申します。よろしくお願いします。

>高知県の「物部川」の初見は何時でしょうか。

手元に資料がないので正確なことは申し上げられませんが、比較的新しいのではないかと思います。

物部川上流域に物部村があります。物部川の名称はまず物部村ありきで出てきていると思います。

その物部村は高知県香南市香我美町にあります『天忍穂別神社』が出元になっているのではないかと思います。

天忍穂別神社の相殿は物部系の饒速日尊となっております。

饒速日尊が物部川下流域の上岡山に一旦、天降ってそこから天忍穂別神社に天降ったとされています。天忍穂別神社内にはその時に乗っていたとされる石船の巨石があります。

物部川の名称自体はいつからの呼称かわかりませんが、物部川流域には物部氏に関連する重要な古代史が眠っていると私は考えております。

下記ブログでも土佐の古代史を追求しておりますのでお時間がありましたら是非お越し下さい。
http://genimakkoto.blog.shinobi.jp/

投稿: ナカちゃん | 2009年2月26日 (木) 22時40分

浜田裕幸さんコメントありがとうございました。こちらのブログは「今すぐ実行まちづくり」のラジオ番組は昨年11月になくなったのであまり見ていませんでした。

 土佐邪馬台国に関してはコメントいただいたナカちゃんが独自に研究されています。

投稿: けんちゃん | 2009年3月 3日 (火) 18時04分

唐の占領軍隊の駐留場所は大宰府?だったのでしょうか。何かそれに絡んで言葉地名などが残っていないでしょうか?

九州年号中、最も著名で期間が長いのが白鳳です。『二中歴』などによれば、その元年は六六一年辛酉であり、二三年癸未(六八三)まで続きます。これは近畿天皇家の斉明七年から天武十一年に相当します。その間、白村江の敗戦、九州王朝の天子である筑紫の君薩夜麻の虜囚と帰国、筑紫大地震、唐軍の筑紫駐留、壬申の乱など数々の大事件が発生しています。とりわけ唐の軍隊の筑紫進駐により、九州年号の改元など許されない状況だったと思われます。
 こうした列島をおおった政治的緊張と混乱が、白鳳年号を改元できず結果として長期に続いた原因だったのです。従って、白鳳が長いのは偽作ではなく真作の根拠となるのです。たまたま白鳳年間を長期間に偽作したら、こうした列島(とりわけ九州)の政治情勢と一致したなどとは、およそ考えられません。この点も、偽作説論者はまったく説明できていません。
 この白鳳年号は『日本書紀』には記されていませんが、『続日本紀』の聖武天皇の詔報中に見える他、『類従三代格』所収天平九年三月十日(七三七)「太政官符謹奏」にも現れています

投稿: 唐軍の九州占領場所は? | 2010年5月12日 (水) 07時00分

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